潮目が変わった文春砲への思考

今回の小室哲哉氏への文春砲についてですが、
庶民の反応が今までとは違った方向で反応しています。

それに対して、堀江貴文氏が早速反応していました。
堀江氏は前から文春に対して、その「えげつなさ」を指摘していて、
庶民・大衆が漸く文春の「ゲスさ・えげつなさ」を感じ取ったと。
一方で舛添要一氏は、「日本は確実に劣化する」とコメントを寄せています。
今回の対小室向け記事で、風が吹く選挙ではありませんが、文春に対する民意の風当たり・風向きが違ってきました。
それは堀江氏の言うとおりです。

昨今の文春記事に対する社会現象は、日本の今の縮図みいたなもので、
実に言い表して妙と言える事象と思われます。

庶民・大衆レベルが何を欲していて何に反応するのか。
この現象は、先の大戦前夜のマスコミ(特にラジオと新聞)の煽りとそれに庶民・大衆が呼応して
戦争民意が止められなくなったことと基本的に同じです。
ターゲットと大衆の熱量は全く違いますが。

よく、たまごとニワトリの喩え話しがあります。
どちらが先かということです。

庶民・大衆が望むから、また望むモノをマスコミは売らんかな姿勢で乱発し与えている構図。
これは、同じくどちらが先か、需要と供給の問題です。
問題は、その中身です。戦争問題なのか政治問題なのか経済問題なのか、はたまた他人の身の下問題なのか。
現状、日本はドップリと平和を享受しており、国家存亡につき緊急課題などありません。
すると庶民・大衆の関心ある問題はドンドン低下していきます。

そして日本は平和ボケの中で、一番関心のある問題は、他人の不幸と身の下の話になってしまいます。
桝添氏はそれを称して「日本の劣化」と警鈴を鳴らしています。

一時、一億総白痴という言葉が流行りましたが、今は、一億総「デバカメ根性」なのでしょうか。(デバカメについてはWikipedia広辞苑を引いて下さい)
そこを拝金主義の文春が販売部数を伸ばせ!のかけ声の下に、
デバカメ根性が飛びつきそうな話題を面白おかしく加工して庶民・大衆に提供する。
庶民・大衆は待ってましたとばかりにそれに飛びつき他人の不幸・身の下問題に狂乱する。
そして、文春はしてやったり、我が正義なりと。
その構図がエスカレートして更に周囲のマスコミがマッチポンプ役を果たし、益々騒がしくなる。

しかし、この他人の不幸と身の下問題を代々的に取り上げて、魔女狩り裁判的にターゲットを晒すことについて
一部からは、おかしい、解せぬ、容認出来ない等の疑問が投げかけられてはいた。

そこで、今回の小室氏の弁明と小室氏の現状を鑑みるに、
庶民・大衆は、川に落ちた犬を更に棒で叩け的な臭いを嗅いでしまった。
それはやり過ぎだし可哀想だと。いい加減にせよの言葉が出て来て、今まで手を叩いて読んでいた庶民・大衆が
不倫報道はもう飽きたと言い始めた。
ふと気がつけば、やはり、不倫は飽くまで当事者間の問題で有り、
関係の無い第三者が囃し立てても、不倫した当事者が、庶民・大衆に対して幾ら謝ってもその先に何も無いこと
その不毛さに気がついてきた。

不倫問題で、庶民・大衆が個人を特定して魔女狩裁判を行い、次かから次と社会から抹殺してしまうと
その後の社会的損失がいかばかりかと考えたときに、今回の小室氏がいい例で、
小室氏の卓越した才能を、関係の無い第三者が先頭に立って魔女狩り裁判で抹殺してしまうことの弊害を考える
よい機会になったと思うのである。

他人の不幸を娯楽にして、またデバカメ根性丸出しで、他人の下半身事情をのぞき見することで
自分の気分転換・ストレス発散を繰り返している閑な輩がいかに多いかということも問題であるが
裏返しで、それはいかに日本は平和なのかということになる。

この閑な輩と三流マスごみ的連中が持ちつ持たれつの関係となり、一定の大衆の声を醸成してしまう。
それは全く世論などではないが、日本の今の雰囲気を醸し出している状況を憂う必要がある。

はなしは変わるが、西部邁氏が逝ってしまいました。
大変残念でなりません。
あれほどの豊富な知識を駆使して、日本人とは、真性保守とはの論陣を張れるのは西部氏だけです。
大変に貴重な知恵袋が逝ってしまいました。
この空いてしまった穴を誰が継げるのでしょうか。見当たらないでしょう。
西部氏の著作「ファシスタたらんとした者」の中でも、自分の最後について明確に述べられていました。
人間社会を深く追求された方の自身の最後の身の処し方は大問題です。

平和ボケの中で、このような文春記事に一喜一憂している現状を憂いて、ある意味この世間のバカさ加減に
疲れたのではないでしょうか。
西部氏が幾ら警鈴を鳴しても、益々低下するだけの世間に疲れたのではないでしょうか。

この通り、日本は平和です。
平和は大変かけがえのないモノですが、平和は怠惰を誘発します。怠惰のその先には何があるのでしょうか。
また、この平和は何時まで続くのでしょうか。更に言えば、この平和は我々日本人が掴み取って構築した平和なのでしょうか。
偽りの砂上の楼閣の上の平和にただあぐらをかいているだけではないでしょうか。
平和について、今が良ければそれでいいとしがみついて、それ以上何も要らない、何も考えない、考えられない思考停止状態に陥っていないでしょうか。

最後に、文春砲に一喜一憂され過ぎについては、至極簡単なことで、
世間皆が「もううんざり」と食傷気味に見向きもしなくなればそれで終了です。
一億総白痴化の進行と一億総デバカメ化は何としても避けたいものです。